……自分の中では、インターネットと言う物は常に「ブレインストーミングの場」であって、その情報を信じる信じない、とか、批判する批判しない、とか、そう言う発想に至る事自体が「ナンセンス」、と言う反応を、つい、持ってしまうのですけれども……、まぁ、それも「自分だけ」の感もあり……。
(・_・……「発言の責任をとれ」、という言葉と、「その言論表現は規制されるべきである」、という言葉とは、どの様に違うのか知らん。……多分、規制法が既にある、か、規制法を作っている最中である、か……、そこにしか、違いは無いですよなぁ……。
(´ω`)……やっぱり、こう、博麗さんが森近さんを呼ぶ時の、「霖之助さん」、と言う呼び方は、こう……何か、こう……た、……爛れたものを、こう……感じ、ますよね。……うん。
森さんのような高いレベルの人でさえ、根拠は示しつつも、「文系には、数学や物理から逃避するという特徴(あるいは傾向)があるけれど、理系にはそう言った特徴は顕著ではない」と言う混同を起こしている。性格診断の言葉にしてしまっている。学問の言葉では、最早、無い。
世間は最早、「理系と文系」と言う言葉を、A型とかB型とか、その域にまで落としてしまっている。最早、理系と文系という言葉は最早オカルト的な性格診断の言葉でしか無い。
……生きて行けない。死にたいと思ったことは、少なくともこの5年ほどは、一度もない。ただ、生きて行けない。
……新聞配達は孤独な肉体労働で殆んど頭を使わなくて済むので、自分にとっては良い。下らないことをいっぱい考えられる。自分は常に下らないことが頭にあふれて自力では止められなくてどうしようもないので、この様な仕事以外は、どうにも、出来ない。
理系と文系という区分けはやはり、嘘だろう。と、自分は感じる。文系の中にも数式は出て来るし(統計)、理系の中にも非自然科学的なことがある(公理公準)。何より、理系がなければ文系は存在しえず、文系がなければ理系も存在し得ない。
まぁ、兎も角。あの本の中にある「理系と文系」という区分けのされかたは、あの人の中ではそれで良いし、世間一般でそれで良いのかも知れないし、だけど、自分の中では、非常に懐疑的に感じ;
「理系と文系」が「演繹系と帰納系」に一対一で対応しているわけではない。そこは、全然関係ない。理系が演繹だ、とか、文系が帰納だ、とか、或いはその逆逆同志とか、そういう事では無い。
その様に感じる。自分はこの姿勢をひとまず、叩き台としてとりたい。あの本に対して。「理系と文系」ではなく、「演繹系と帰納系」。この直線。その上の諸学問。そしてそれは円になる。端と端とに橋がかかっている。昨日の日食のように。
だけれども、この直線は一次元の線だけれども、円になっている。演繹系と帰納系との間は、直接繋がってはいなくとも、一本橋がかかっている。何故なら、現実的な諸問題に関して、自分達は演繹の元になる命題というものを統計の帰納からしか得られないからだ。
でも続ける。演繹系と帰納系。諸学問は勿論この両方を同時に使う。だけれども、この二点を端と端にとった直線を考えた時、おそらく、論理学が演繹系の端に近く、統計学が帰納系の端に近くなる。諸学問はその間で再配置される。
取り得る姿勢の一つとして、理系と文系ではなく、「演繹系と帰納系」、という言い方のほうが自分の中ではすっきりする。
……それに近い表現をやっていらっしゃる方が、現にいらっしゃるというのであれば、自分としては、押さえたい。
……で、自分が知りたいのは、東方の著作権が切れた後の東方を元ネタにした創作作品。東方二次では無くても良い。
……それでも、東方は、今の処周囲を見渡すと、最もその可能性が高い。……と、思うのです。(勿論、一寸先は闇よ。鬼がわらう)
……であれば、神主さんが亡くなられて50年経った時に、東方は、その東方の種子を残しているか。元ネタにされうるか。……と言う、未来像を考えてしまう訳です。これも平凡な事だと思います。ただ、そこまで東方に拘るのは不健康な気はします。
……で、だけれども、東方は一次創作であって、神主さんは「原」作者であり、権利を持つ。……この違いは何か、と言ったら、やっぱり「死後50年」のお話になる。












