記憶は現在のものであり続け、過去のものにはなり得ないっていうのが最近の考え方らしい。思い出すという行為が現在のものでしかあり得ないからってだけなんだけどね。
トラウマを誰かに話すことでPTSDが軽くなるっていうのもあるけど、あれは患者側がリラックスした状態で話すのが必須で、感情が昂ぶった状態で話すと悪化させるだけらしい。何かを思い出したときのその人の状態が、思い出した出来事をどう捉えなおすかを決定する。
忘れてると思ってるだけで思い出そうとすれば思い出せるんだろうけどね。昔の何気ないことを思い出して浸ろうとするには、いまの状況は良くない。何かを思い出したときの気分がその思い出した出来事を脚色してしまうから、嫌な気分のときに思い出したものは嫌な思い出になってしまう。
昔のことって異様に美化されているものと、異様に嫌悪感を抱かせるものばかりが記憶に残ってるんだけど、何気ない日常的な出来事ってびっくりするぐらい覚えてない。そういう何でもないことが大切なんだろうと思うんだけど。もったいない。
子供の頃に見ていたようなやり方で世界をもう一度見てみたい、って大人になると思うんだろうけど、子供のように見ようとした時点で子供のようには世界を見れないんじゃないかなとか思うと切ない
怒ってる人とお話するより笑ってる人とお話する方が楽しいでしょ?ぐらいの理由があれば他人に優しくするのに十分な理由になる。あんまり難しく考えることではないよね。
情けは人のためならずって言うけど、他人に為した善行は巡り巡って自分を喜ばせることになるだろうし、他人に為した悪行は巡り巡って自分を悲しませることになるだろうって何となくは思ってる。たぶん、この何となくな思い込みがなければ他人に優しく接するのは難しい。
飲みすぎて吐くって経験も大人の階段の一段に含まれてるらしいよ。ぼくはまだ経験したことないけど、吐いた人は口を揃えて「自分の限界に挑んでやったぜ…」みたいなこと言ってた。
遠くまで走りに行って帰りが辛くなっちゃったり、木登りしたあとに降りれなくなっちゃたりするのは経験値たくさん手に入るイベントだよね。そうやって人は自分の限界を学んで、そのあとはそれを更新したりそこで止まっちゃったりするわけです。
「ランナーズハイはいりましたぁぁ!」ってなったときの全能感はすごいよね。死ぬ直前もたぶんあんな感じなんじゃないかなって思う。
運動不足だったから久しぶりにランニングでもしようと思って走ってたんだけど、走りはじめは「風を切って走ることがこんなにも気持ちの良いことだったなんて…!」みたいな感じだったけど、15分ぐらい走ってからは「大丈夫だ…まだいける…無心になって脚を動かし続けるんだ…」って感じやった
言葉への偏愛みたいなのが生まれたきっかけは、自分よりも上手に言葉を使える人がたくさんいるってことを知ったことかな。同じ日本語を使っているのに、自分とはまったく違う深度の世界を表現できる人がたくさんいて、そういう人に憧れるようになってからは言葉ってすごいものだと思うようなった。
「あるふぁがあるふぁを滅ぼすとき、その者はおめがとなる」という伝承がTwitter界には残されているから、あるふぁとあるふぁはよく喧嘩する。
「食べる必要も自尊心を満たす必要もないため、貴様らのように何かを犠牲にして生き延びる必要もない。そして、何よりも私たちは時間の使い方を知っている。ただ座り、内省し、それを楽しむことができる。貴様らのような下等な生き物とは異なるのだ…」ってぬいぐるみに言われてる気がした



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