女性に対し「服とか化粧に金かけるなよ」って言うひとは、嫁さんが歳食っていくにつれ太ったりみすぼらしくなっても絶対に文句言わないで欲しいなって思う。かわいい服も着れず見た目を誉められることもないのに容姿を気にし続けるなんて難しいから。見られることを意識せず綺麗でいれるひとは少ない。
弱い女の子が良いんですよ。いえいえただ無抵抗であるとか弱味を見せてくれるのが良いとかそういうことではなく、本来的には強い子なんです。心はすごく強くて、他の子に負けないくらいがまんできる子なんです。でも誰かに依存したり重荷であることを謝りながら生きるしか術がない女の子が良いんです。
つらいときには「ちょっとがんばろう」どころか「いつもの君でいろよ」という言葉すらも攻撃的に感じられる。そういうとき、親身にされるよりただ放っておいてくれたほうがやさしい場面もあるんだなって思う。
ドライブの参考にしようと日帰り旅ブログみたいなものを読んでたら、その日の日記につけられたジャンル名が「ジャンル:たのしい」でなぜかやたらに癒された。
『総合タワーリシチ』読んだ。ゆる日常漫画かと思ったらエモ過ぎワロタ。色んなものに負けず嫌いで生きてきた女の子が、高校に進学して自分に勝るものを持った女の子に出会いぶつかりながら仲良くなる話。絵でしっかり笑わせるし話の筋も良い。純粋に面白くメインカプの悠と神奈もかわいい。文句なし。
なにかのSNSやってて「友達申請」だの「仲良し登録」だの出てきたときに、「友達とか仲良しとか簡単に規定してしまって繋がり合う怖さが許せない」とか思ってしまいネット上でうまく繋がりをつくることができない女の子かわいい。
的なことを職場で言ったら「なんかいっぱいふぁぼられそうだからツイートしてみてよ」と言われたのでここに記すこととする。
キュウリというのはその95%が水分でつくられており、要は100ccのコップに入れて浮かんだほんの5%分の層がキュウリをキュウリたらしめている。それを思えば、人間を構成するもの全てを並べたとき、個性として表れるのはほんの僅かしかない。ひとはその違いを愛することができるのだ。
「なにしてんの、妹」「嗅いでおります。お兄ちゃんの<censored>を」「見ればわかる」「ではなんでしょう」「なぜ嗅ぐのかと訊いている」「甘いにおいがする」「そうなの?」「うん」「自分ではわからないな」「お兄ちゃんの体液からは糖がでています」「身体の異常みたいに言うな……」
女の子から結構モテるらしい後輩に「リア充と非リアの違いって何?」って問うたら、「優しさを攻撃力に振ってるのがリア充で、防御力に振ってるのが非リアじゃないですか」って返されて、あー、こういう偽善くさいことさらっと言えたら確かにモテそうって思った。
時間は流れ過ぎ去ってゆく。それは変えられないことだけれど、その流れに手を伸ばしてなにかをすくい上げることはできる。時間を大事にするというのはつまりそういうことなのだと思う。
心に刺さるものって、たいていはその棘がやがて心のなかにとけて自分を形成する要素のひとつになるのだけど、ふと、ある瞬間にとけてしまったはずの棘がもう一度結晶化して心の内から破れそうになる。そして自分はそういう創作物を愛している。
ヒト同士も決してわかりあえない、という不可能性を認めた先にシンプルな人間付き合いが存在するんじゃないかと思えてきた。
なにかを失うことで楽になれるかもしれないと考えることは、どんな人間でも一度はあるだろうけど、きっと楽になろうとして失うものはいつも想定より多くて、それが自覚できていなかったらたぶん失うことで楽になることはできないんじゃないかと思う。
大人になろうとするより、自分なりに大事なひとと幸せになろうとする方がきっと死ぬとき満足できる人生になると思う。



lucy






































































