ガーリィな短歌って加藤千恵さんしかり、形容詞が歌の主題になっているイメージがあります。「痛い」「優しい」「正しい」とか。それはつまり、「変化に気づく」ということで、周りが、恋人が、そして自分が、刻一刻と変わっていることに、リアクションせざるを得ない。
由紀という高校生が登場してニックネームはユッキーとかでなんやかんやあってラストに実はヨシノリという名の男の子だったと判る叙述トリックがオチの日常系ミステリを書いていた恥ずかしい過去を思い出して枕に頭突っ込んで脚ばたばたうわあああってなるから柏木由紀の名前を出すのはやめてください。
京大短歌の藪内亮輔さんの連作「愛について」。〈ゆるやかな小波であつた筈なのに大津波となりて陸へ 感情は〉(陸=くが)「感情は」の結句に到って、一首全体が隠喩だったことが判るのだが、しかし、やはりこの「感情」は、自然のそれであったと気づく。http://t.co/IcQudGDr
4号は宣伝の時に、「面白いです」とも「おすすめ」とも言わなかった(内心では物凄く面白いし、絶対おすすめと思っていた)。「面白い本を見つける喜び」は読者のものだから、つくる側が「これは面白い本」と言ってしまってはいけないような気がしたのだ。少なくとも4号が評判になるまでは。
淘汰圧のアナロジーでいくと、大事なのは言葉(もしくは作者)が生き延びることができるかどうか、ということになって、たとえば塚本の内なる淘汰圧が産み出した多くの技法(初句七音、句割れetc.)は現代まで受け継がれて、若手はこれを「自然に」使いこなしているまでになっている、という。
堂園さんの歌は言葉ひとつひとつにかなり「力」が加えられていて、言葉どうしがねじられたり積み上げられたりしている。内なる淘汰圧がすごく高い。〈君を愛して兎が老いたら手に乗せてあまねく蕩尽に微笑んで/堂園昌彦〉大森静佳さんの定型の崩し方も、これに近いものを感じる。
「淘汰圧」とはふつう環境(外)が規定するものだけれど、短歌においては、「言葉」をひとつの独立した〈生命〉と見なすなら、言葉を「淘汰」するのは、コミュニティ(外からの淘汰圧)であり、また作者(内なる淘汰圧)であるはずだ。
言葉の純度、というとき、「淘汰圧」という概念を援用することは有用だと思う。淘汰圧の高い「場」において、多くの言葉は生き延びることを許されない。
反対に、一首の歌のなかで、「この言葉はこの作者にとって異物だろう」と読んでいて感じるタイプの作者がいて、吉川宏志さんとか永井祐さんはわりとこっち。具体的にいうと永井さんが「リア充」とか詠み込むのは、「異物」に近づこうとしているからなんじゃないだろうか。
作品を読むときに、作者が「自己」あるいは自身の「作家性」に、どれほど「異物」を混ぜようとしているか、という視点から考えると面白い。純度を限りなく高めていくというのを一方の極として、私見では最近の若手はけっこうこっち方向だと思う。堂園さんとか大森さんとか竜宇さんとか珂瀾さんとか
京大短歌に書いたとおり、僕は短歌をつくるときは、街を歩いている。街を歩いていて目にとまったもの、心に浮かんだことが歌になる。家ではめったにつくらなくて、特に椅子に座っているとできないので、家のなかをうろうろしたりしている。
〈天皇が原発をやめよと言い給う日を思いおり思いて恥じぬ/吉川宏志〉よい歌です。そしてこの歌のよさは、やはり結句「思いて恥じぬ」の内省にあることは、見逃さない方がいいと思う。
今月の角川『短歌』に、吉川宏志が〈天皇が原発をやめよと言い給う日を思いおり思いて恥じぬ〉という歌を発表していました。RT @noieu このような破局的な原発事故下で、なぜ、ここまでして平時を保とうとするのか。進んで国民の総被曝政策をとっているとしか思えない。この国は完全におか…
本名をウェブに「さらす」ことのリスクは理解できるけれど、とはいえ、見方を変えれば、そこが自分の名前を名乗ることができない場だとしたら、ウェブって一体なんだろうとも思ってしまう



kemurino







