もういいけど。わたしゃあ実在するし今まだ生きてるよー…ということだけは忘れないでほしい、かなあ…。(というエゴが最後っ屁w
人の命や生きることの価値までも貨幣換算せねば伝わりもしないようなこの世界に、未練なんかあるもんか。
もうここから撤退する気になったから全部書いてく。国や民族や宗教や性別・その他諸々の括りが誰かにとっての「価値」なのは認める。しかし、私はそれらを「この私」に押し付けてくるもの全てに対して、反抗する。回収することで力を得、暴力となることに激しく抵抗する。一人でだって構わない。
ただ「(システムに・誰かに)一方的に救われる立場」というのがどれだけ心を削り蝕むか、やっと解った?下にみるな・上にいくな。己自身もだけれどね。
動悸きびしい。最近TL眺めるのが実はキツイ。被害やPTSDや疾患ですら資質と資格を問われるのは耐えられない。逃げる。
薬の副反応で起たないとかいかないっていうのは結構ある。で、それが超深刻な問題に時になるのも「いかせなきゃ(いかなきゃ)」うんぬんっていうのが首を絞めてると思うんだよ。己の身体がすべて己の感情のコントロール化にあるわけないのにね。
「愛なんかもう要らない」 冗談じゃなくて、あたしたちはもう、たまんなくイヤなわけ。視線感じるんだよ、どこにいても。街歩いてても、家にいても、トイレ入っててもさ。居場所なんてどこにもないよ。
私が溺れた話は実家ではタブー扱い。それでもやっぱりみなそれぞれに思い出すらしい。当時5歳。私自身の記憶は、飛び飛びな前後と今でも夢に見るほど鮮明な一瞬とが混ざり合った、一緒不可思議な記憶だ。
親や近親者からの影響からどうやって出て行くか?が私の人生におけるテーマだから、子にも同じ道を歩ませることも解っている。それが多分、人間に生まれた、ということなんじゃないかなとも思う。誰の手も借りず赤ん坊が大人になれはしないんだから、ね。
私が親から受けた影響は大きいよ。でもね、私が溺れた時もセクハラで悩んだ時も、DVから助け出された時も、いつも手を差し出してくれたのは「他人」だったんだ。
でも、実は私は生きてるだけで誰かに何かしら影響を与えているから。私が望む形では無いかも知れないけれど、それは誰に対しても…例えば子に対してだって同じこと。なら、私が生きた証は、私が毎日を生きることそのものなんじゃないかなぁって。
あっという間に身体から感覚が離れちゃうし。「他人事」か「他人の身体」を見てる・借りてる感覚かなあ…。結構いいじゃん、って思うときも「お気に入りを着てる」感じだったりね。ああー上手く書けないったら!痛みに滅法鈍いのも、そういうのと関連してるかもねと思ったり。
気っ風のいい女友達、柔らかい男友達とよく話す。彼女・彼には「何故自分は女・男なのか」という疑問はなく、一致していることにいつも驚く。所謂規範や待遇に違和感や怒りがあっても、だ。彼女と彼の共通点は、自分自身の身体の性には疑問がない、ということ。私には「解らないこと」だ。



太陽石2つ






