語り手が語る世界のために犠牲になったり、語り手が世界に語らされることへの欺瞞が『氷菓』や『愚者のエンドロール』のテーマだと理解した上で『クドリャフカの順番』読んだら、案の定今度は語られる者の語り手になることへの希求や挫折が書かれていてとってもよかった。
「つらい」「つらくない」って言いながら花占いをして、「つらくない」が出たら「わかってない…」ってつぶやきながら泣き、もう一回やり直す
『涼宮ハルヒの憂鬱』においてハルヒがなぜ「薔薇色の日常」(『氷菓』より)を生きることを可能にしたのかと言えば、それは語り手の権利(それはほぼ義務に近い)をキョンに譲り渡していたからではないのだろうか。『消失』において結局キョンは、日常を選択することができなかった。
『けいおん!』はユートピアたる日常を描くフィクションとしてこれ以上ないぐらい特化した作品であることは疑いようがない。ではそうやって出来上がった空間に、果たして「私(=語り手)」は生きることができるのだろうか? これは結構切実な問いなのでは。
アニメ『氷菓』に抱えている問いは、「いかにして小説の主人公は空気系的空間に入ることができるか」というものだろう。例えば『けいおん!』は小説への移行が困難に思える。一人称で書いても三人称で書いても本質から大きく逸れたものになってしまうのではないか。
坂道のアポロンの淳兄さんせっかくチェット・ベイカーみたいなプレイヤーなのに学生運動から帰ってきたらピストン用のオイルを塗りたくって火をつけたトランペットを吹き荒らすフリージャズマンに転向してらどうしよう



田中のど/喉
































































