終盤のペン入れは大友さん本人でなく、今敏さんが担当されていたという噂を聞いて注目していたのですが、ハッキリとわかる箇所はありませんでした。ただ、人物のタッチ(頬の細かい線)が、序中盤ではカスレているのが、終盤ではカスレていないように思いました。
AKIRA作中、煙やホログラムの表現で、ペンの線がボヤけたような描き方がされている箇所があるのですが、あれは白ドットのトーンを貼り付けることで実現していることがわかりました。
大友克洋GENGA展に行って来ました。AKIRAの原稿がガラスケースの中に渡した針金の上に縦5段に分けて陳列されてて、それが3部屋で全六巻全ての原稿を展示するというのが目玉。
いなばのタイカレーを探し当てた。今食べてる。ジューシー感すごい。 http://t.co/PbTS4EDT
『ぼくらの〜』の見開き左上にしばしば置かれるコマはとても印象的。状況から一瞬だけ我に返った時の高揚感、その再現がすごい。
『ぼくらのよあけ』(今井哲也)は『なつのロケット』(あさりよしとお)の系譜にある、骨太なジュブナイルだと思います。
ニャル子の海回、ストーリーは前回Bパートから続いてるから実質1.5話。今回Bパートからの流れが上手かった。あれはズルい。
「規制」は文化資本の刈り入れなのかな。(勿論、その資本に正負はあるのだけど。)ただしその刈り入れが、鶏にでなく、ヒヨコに対して行われ始めると、育成・教育によって蓄積されたモノが目減りしていく。
補えば、脳は身体感覚に比重をつけてる。指先や舌、目などは、他の部分と比べ、脳が担当している面積の比率が大きい。(参考:脳の中の小人) だから、もし脳の感覚をメディアで再現するには、脳の中で高精細に認識される部分は、より大げさに表現する必要があるのではないだろうか。
駿さんは涙の玉をビー玉くらいに描く。鳥肌が立つ(立毛筋の収縮する)時、毛が全部持ち上がる風に描く。僕らが自ら涙したりゾッとするとき、自らの身体感覚は増幅されてるので、カメラでそのまま写し取ってしまうと、カメラ的な現実は、感覚より矮小化したように感じる。
「感覚を再現する」でなければならないことは、多くの漫画家が話す。一部の浮世絵の風景画なんかも、あれは現実の写し取りでなくて、感覚の再現だ。コマ割、デフォルメ、カット割、構図などが悪い→「演出がちぐはぐ」とは、感覚の再現の効率が悪い、ということだろう。
「押井 実写の方がどんどん後退していって、宮さんは、アニメーションで情緒的な存在を描こうとしている。実写とアニメーションが、微妙に逆転しているんです。 」「押井 アニメーターって基本的には感覚を再現する仕事なんだよね。」
岡崎京子「ヘルタースケルター」(1996)は女性の身体感覚と食事の相関に詳しい。→「押井 ある人が言ったんだけど、最近の日本映画に出てくる若い女の子は幽霊みたいだって。いつどこで寝て食べて生活しているのか分からない。要するに体がない。」 http://t.co/EEAXaOLh



ヒグチ・ららら科學の子




